涼宮ハルヒは夜しか泳げない


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1 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 08:52:25.69 ID:LvRLY+EsO

自分は世界の中心なんかじゃない。

世界が自分を中心に回ってるなんて考えたことなんてなかった。

でも、まざまざと思い知った。
私は、世界の前では「その他大勢」でしかないんだ。

3 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 08:54:02.94 ID:LvRLY+EsO

野球場でのこと以来、世界が違く見えた。

楽しい会話の中で、隙間を感じていた。

クラスの男子が馬鹿をする。
誰かがそれを茶化す。
笑いの輪の中で、ふっと、冷静になる瞬間。

こんなことが、本当に可笑しいのだろうか。
本当に、楽しいのだろうか。

考え始めると、どんどん隙間は広がっていって、
私は話しながら、笑いながら、
遠くからみんなを見る。

6 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 08:55:22.21 ID:LvRLY+EsO

私は、どこにいるんだろう。

夜、ベッドの中で布団に隠れて考えてみる。

もしも私がこのまま毛布の中で小さくなっていって、
見えないくらい小さくなって、
消えてしまったとしたら。
この世界はどうなるんだろう。

7 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 08:57:13.57 ID:LvRLY+EsO

私と一緒に消えてしまうんだろうか?

そんなはずはない、世界は私のことなんかに構っている暇がないんだ。

毎日毎日、おんなじように回ることで精一杯なんだ。
私がいてもいなくても、明日は来る。

私の大好きな人たちもいつか私のことを忘れてしまって、

8 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 08:58:41.93 ID:LvRLY+EsO


…私は、誰なんだろう。
私は、なんのためにいるんだろう。

考えても考えても、答えなんてひとつも出なくて、
泣きそうなくらい寂しくなって、
喉がきゅんと締め付けられて、呼吸がしづらくなった。

空気が重くなって、まとわりついてくるような。

9 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 08:59:34.06 ID:LvRLY+EsO




誰か、

誰か、

誰か私を


「そりゃ、そんな底でじっとしてたら苦しいにきまってるさ」

10 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 09:02:54.88 ID:LvRLY+EsO



どこからか声がした。

遠いようで、頭に響くようで。


「ほら、いい夜だよ。泳ぐにはもってこいだ」

泳ぐって、どうやって?

「昔とかわらないさ。さぁ、空気を蹴って」


11 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 09:04:37.94 ID:LvRLY+EsO


毛布から顔を出すと、真夜中だというのに部屋は明るかった。

カレンダーの日付がはっきりと見える。

窓の外にはレモンソーダのグラスみたいに澄んだ月。
絵本みたいに非常識なサイズの月が夜の景色の中で浮いて見えた。

12 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 09:06:49.04 ID:LvRLY+EsO

「どうしたんだい、夜は短いんだ、さぁ早く」

「私、泳ぎ方なんて知らないわよ」

少し不機嫌な声で、その人は言う。

「ちゃんと教えただろう?
まぁ久しく泳いでないから忘れるのも仕方がないかな」

14 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 09:08:17.58 ID:LvRLY+EsO

私はなぜか申し訳ない気分で一杯になった。
その声が、ほんの少し寂しそうだったから。

「よし、じゃあちょっと手伝ってあげよう。
目をつむって、息を止めて」

迷ったけれど、私は声の言う通りにした。

目をつむっても、月明かりはぼんやりと感じることができた。

16 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 09:14:10.36 ID:LvRLY+EsO

「嬉しかったことを思い出してごらん。
なるべく、最近のことを」

嬉しかったこと、何かあったかしら。
今夜はなんだか嫌なことしか思い出せないような気がする。

なやんでいると、その人はぼそっとした声で諭す。

「今日の晩御飯は、何だった?」

18 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 09:16:09.83 ID:LvRLY+EsO

…そうだ、今日はカレーだったんだ。
この間ハヤシライスだった日にカレーがよかったな、って言っちゃって。
お母さん不機嫌になったのに、覚えててくれたたんだ。

「おいしかった?」

当たり前よ!お母さんが作ったんだから、おいしくないわけないじゃない。

「そりゃよかった。
よかったことってのは意外と忘れがちだからね」

19 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 09:17:12.72 ID:LvRLY+EsO

そういわれてみれば、わりとたくさんの嬉しい出来事が見つかった。

指を折りながら数えていたら、ずっと、ずっと昔のことまで思い出すことができた。

20 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 09:19:15.44 ID:LvRLY+EsO

もっと昔に、何か嬉しいことがあった気がするんだけれど、
何かモヤモヤとしてはっきりしない。

見えない蜘蛛の糸に捕まってしまったみたいで、
私はうーんと頭をひねった。


「もう少しで、思い出せそうなんだけれど」

「それじゃあ、ばた足みたいに足を動かしてごらん。
そうすると血がめぐって頭の回転がよくなるから」

そういえば聞いたことがあるわね。
ずっと机にむかっているよりも
散歩をしているときの方が脳が活発になる、って。

21 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 09:21:46.81 ID:LvRLY+EsO

毛布の中でモゾモゾと足を動かす。

うーん、もっと、もっと昔に何かあったような。

うーん。

毛布がずり落ちても、気にせずずっと足をバタバタさせる。

うーん、うーん。


「さぁハルヒ。息を吸って、目を開いて」

22 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 09:24:48.88 ID:LvRLY+EsO

え?
ああそうだった。

目を閉じていたんだった。あまりにも月が明るくて、
まぶたを閉じても届くからわすれていた。
何で今日はこんなにも月が明るいんだろう。



目を開くと、月が目の前にあった。

24 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 09:28:55.11 ID:LvRLY+EsO

「えっ?」

私の体は送電線の上。
ベッドに寝ていた姿勢のまま夜の風に吹かれていた。

「えっ?」

「絶対にうつむかないで。上を向いたまま、上に泳いでおいで」


ばた足の幅を大きくして、体をくねらせる。
緩やかな風に乗って、私の体はふんわり高く昇っていく。

28 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 09:32:29.30 ID:LvRLY+EsO

上空の空気は冷たく透き通っていて、体が軽い。
耳の中で空気が音をたてて回る。

月も星も、撫でてしまえそうなほどに近い。

地面から遠く離れてしまって、
回りに距離感がつかめるものがなくなったので、
私は自分がどこにいるのかわからなくなった。

でも、それはそれで心地がよかった。

29 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 09:34:11.75 ID:LvRLY+EsO

ビルの群れの向こう側に、街の灯も星の光も見えないところを見つける。

あそこは海。私の家は海から遠いのに、
高いところからなら簡単に見ることができた。


少し強い風が、火照った頬を冷やしてくれた。

鼻が、胸が、むずむずした。

「すごい!私、本当に飛んでる!」

突然走り出したい衝動に駆られたけれど、
ふわふわ浮いているから出来なかった。

30 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 09:36:46.57 ID:LvRLY+EsO

「正確には泳いでるんだけどね。
どうだい、久々に泳ぐ空は」

どこかから聞こえていた声が、今度は真後ろから聞こえた。


振りかえるとそこには、大きな鯨が優雅に泳いでいた。

31 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 09:39:14.87 ID:LvRLY+EsO

「うん、どうしたんだい?黙り込んで」

「…魔法みたいに連れ出してくれたから、
私、てっきりピーターパンみたいな男の子かと思ってたわ」

「残念だけど、子供だけの国には招待してあげられないよ」

愛嬌と魔法の粉を振り撒いてくれる
かわいらしい妖精もいないしね、と鯨は言った。

32 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 09:42:16.12 ID:LvRLY+EsO

「ねぇ、どうやって私を浮かせてるの?
あなた超能力でも持ってるの?
それとも、鯨はみんなこうなの?
私、本物の鯨なんて見るのはじめてだから
どんなのが普通かわからないけど、
飛ぶなんて知らなかったわ」

「鯨?超能力?」

大きな口をぐわっと開いて、空気を震わせずに鯨は笑った。

33 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 09:44:09.54 ID:LvRLY+EsO

「な、なによ!」

「そうか、君には鯨に見えるのか。うん、なるほど」

優しそうな大きな目で私を見て、鯨は言う。

「他の鯨はどうか知らないけど、
わたしは別に念力だとか神通力だとか
そんなようなものは持ってないよ」

34 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 09:45:35.81 ID:LvRLY+EsO

「じゃあ、なんで」

「重い液体の中に軽いものがあると、それは浮くだろう?
あれと同じさ。君は今、夜に浮けるくらい軽くなったんだよ」

それだけさ。
そう言って鯨は尾びれを振る。

なるほど。
難しいことはよくわからないけど、なんとなく納得した。

そんなことよりも、今はこうやって空を泳げていることが
嬉しくてたまらなかった。

35 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 09:47:17.77 ID:LvRLY+EsO

どうせなら腰から下が人魚みたいならよかったのに。
イルカみたいにフリップしてみようとしたけど、うまくいかずに、
私はふよふよと後ろに漂うように流れていった。

それをみて、鯨はまた大きな口で笑った。

37 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 09:50:29.30 ID:LvRLY+EsO


「その様子だと、本当に忘れてるみたいだね」


「えっ?」

「昔も今日みたいに飛んでたことさ」

しばらく練習して、少しは自由に泳げるようになった私に、彼は言う。

38 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 09:51:10.57 ID:LvRLY+EsO

「まぁ仕方ないかな。ずいぶん昔のことだから」

「…ごめんなさい」

「そんな、謝らなくてもいいよ。今はこうやって泳げてるんだからね」

彼は月に腰掛けて、尾びれをひらひら振って言う。


ビルのアンテナくらいまでしか泳げない私は、
高くまで泳げる彼がうらやましく思えた。

39 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 09:54:02.49 ID:LvRLY+EsO

「さて、もうそろそろ時間かな」

彼は月から離れ、私の方へけのびをしてきた。
その反動で、月はゆっくりと動き出す。

「ハルヒ、君ももう帰りな。これはお土産」

彼は口にくわえていた星を手のひらにのせてくれた。
一息で飛んでいってなくしてしまいそうなそれは、
蛍みたいに熱を出さずに輝いていた。

とてもきれいで嬉しいけれど、

「私、まだ帰りたくないわ」

彼は困ったような顔をした。

40 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 09:56:52.43 ID:LvRLY+EsO

「駄目だよ、こればっかりは」

「どうして!?」

せっかく泳げるようになったのに。

まだ、まだ高いところまで泳ぎたいのに。

「説明すると長くなるから、はやくしないと」


「…また、夜に連れ出してくれる?」

「わかった。約束しよう」

41 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 09:57:44.97 ID:LvRLY+EsO

彼は、私を背中にのせて家の屋根まで運んでくれるという。

「危ないからちゃんと掴まってて」

うん、と返事をしようとしたけれど、
その時にはもう彼はすごい速さで泳ぎ始めていたから、
声に出すことができなかった。

43 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 10:04:31.77 ID:LvRLY+EsO

…うらやましい。

高いところまで行けるだけじゃなくて、こんなに速く泳ぐこともできるんだ。
彼の背中は広くて、熱くも冷たくもなくて、
すべすべとした感触がした。

私の家の上まで、あっという間だった。

「ありがとう。あとは自分で泳いで帰るわ」

掴まっていた背びれから手を離す。

ふっと、体が重くなるのを感じた。

「えっ」

45 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 10:12:40.73 ID:LvRLY+EsO

耳元ですごい勢いで風がなく。
ハジャマがバタバタと暴れだす。


泳げない。

彼が、星が、月が飛んでいってしまったみたいに離れていく。

離れてるのは私の方。
肩越しに後ろを見る。

私の家の屋根って、上から見たらこんな形なんだ。

46 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 10:18:23.67 ID:LvRLY+EsO

だんだん細かいところまで見えてくる。
鋭くて武骨なアンテナがすぐ近くに、

ああ、


「……痛い」

背中から落ちたけれどあまり痛くなかったのは、
私より先に毛布がベッドからずり落ちていたからだった。

47 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 10:21:17.11 ID:LvRLY+EsO

目の前には電器のヒモがだらしなくぶら下がっている。
真っ白い天井は、朝の光で照らされていた。

「あ、そうだ!星は!?」

彼からお土産にもらった星は、どれだけ探しても見つからなかった。

落ちたときになくしてしまったのかしら。


あれだけ小さいものだから、もう見つからないかもしれない。

49 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 10:28:21.85 ID:LvRLY+EsO


呆けていた私に目覚ましがヂリリと鳴いて、今日も動けと言った。


「いってきます」

扉を開けて、朝の空を見上げる。

雲がひとつもなくて、鉄塔や送電線がなければ
不安になってしまいそうなくらい広い。

昨日の夜、私はあそこを泳いでいた。

そう考えるだけで、鼻の奥がむずむずした。

50 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 10:30:41.49 ID:LvRLY+EsO

たんっ、とはずみをつけて跳んでみる。
すぐに墜落して、背中の鞄につけたキーホルダーがじゃらじゃらと鳴る。

やっぱり、夜しか泳げないのかしら。


手を伸ばしてみたけれど、空は憎らしいほどに高い。
でも、いい。
きっと、夜になればまた。
退屈な朝だけれど、夜のことを思えば少し希望が見えた気がした。

51 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 10:40:13.06 ID:LvRLY+EsO



嘘つき。


あれから一週間、彼は現れなかった。
夜、窓を開けて待っていた。
そわそわして部屋のなかをうろうろしたり、じっと空を見つめていた。

でも、彼は迎えに来てくれなかった。

声も聞こえなかったし、空に鯨の影は見えなかった。

54 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 10:41:10.36 ID:LvRLY+EsO

ふっ、と。
不安になった。

やっぱり、夢だったんだろうか。
彼のくれた小さな星も、結局見つからないまま。


今日は、もう寝てしまおう。
毛布にくるまる。
もうそろそろ、毛布でも暑い季節になってきた。

明日また暑いようだったら、タオルケットを出そう。

56 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 10:42:17.17 ID:LvRLY+EsO

ひゅわっ、


部屋の中に、涼しい風が吹き込んでくる。

机の上のノートが、壁のカレンダーが、はらはらと音をたてる。

部屋の中に、ぼうっと蛍のような光が浮かぶ。

「あっ」

彼のくれた星だ。

蛍光灯の紐や壁にぶつかったりしながら、開け放たれた窓から逃げていく。

58 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 10:43:23.86 ID:LvRLY+EsO

「ごめんね、なかなか会いに来れなくて」

彼の声に、私は急いで毛布から飛び出した。
踏み出した勢いで、私の体はふわりと浮いた。

輪をくぐるイルカみたいに、窓から外へと飛び出す。

「遅いじゃない!」

もう、来てくれないんじゃないかと思った。

あたりを見渡す。 偉大な鯨の影を探す。

59 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 10:45:10.57 ID:LvRLY+EsO

「ごめんごめん、急いで片付けないといけない用事が重なってね」

声はすぐ後ろからした。

我が家の屋根の上で、燕尾服を着こなした兎が恭しく礼をしていた。

60 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 10:46:36.19 ID:LvRLY+EsO

姿は違っていても、私にはそれが彼だとすぐにわかった。

「今度こそ不思議の国に連れていってくれそうな格好ね」

「格好だけ、だけれどね」

彼の耳と髭が夜風になびく。
上等な生地のジャケットが、月の明かりでなめらかに輝く。

61 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 10:48:13.35 ID:LvRLY+EsO

「あなた、はいったい何者なの?」

「なんだと思う?」

彼はにこりと笑って、ふわりと浮かぶ。

引力から解き放たれたみたいに
ゆっくり高くあがっていく彼に
置いていかれないように必死で泳ぐ。

64 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 10:49:19.57 ID:LvRLY+EsO

「えぇと、天使か、神様かしら?」

「神様、ねぇ」

彼は考える人みたいなポーズでくるくる回る。

「…そんなに、似てる?」

「そういえば、そんなに似てないわね。
神様は大体いつも人間の形だもの」

「似てないのか、ならよかった」

69 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 10:52:32.88 ID:LvRLY+EsO

よほど神様が嫌いなんだろうか、
彼は嬉しそうにくるくる回る。

さっきらか何度も回っているけど、
目は回らないんだろうか。
気持ち悪くなって、落っこちてしまったりはしないだろうか。

あ、そうだ。

「ねぇ、この間、何で私泳げなくなっちゃったの?
いきなりだからびっくりしたわ」

70 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 10:54:41.93 ID:LvRLY+EsO

「ふむ」

顎をさすりながり、彼は考えるフリをする。
にやにや笑っているんだから、絶対真面目に考えてなんかいない。

「なんでだろうねぇ」

「教えてよ!」

「それはハルヒが一番よく知ってるんじゃないかなぁ」

どういうことだろう。
わからないから聞いてるのに、いじわる。

72 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 10:58:09.70 ID:LvRLY+EsO


「…ヒントくらいは頂戴よ」

「じゃあ、ひとつだけ。軽くないと夜は泳げないよ」



…あ、

「つまり、その」

「ハルヒが何を考えてるかなんてわからないけれど、多分正解」

73 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 11:02:30.40 ID:LvRLY+EsO

「……ごめんなさい」

不思議そうな顔で彼は言う。

「なんで謝るのさ。怖かったのはハルヒなんだから」

それでも、私は謝りたかった。

74 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 11:04:24.47 ID:LvRLY+EsO

今日の彼は、この間とは違う泳ぎ方を見せてくれた。
屋根や電線にふわりと降りては、けのびするみたいにして昇っていく。

昇りきった上空で、彼はしばらくふよふよと漂うように泳ぐ。
私も真似をしてみたけれど、彼みたいに身軽には泳げなかった。

彼の白い毛並みは、月の光を反射してきれいだった。


75 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 11:06:23.73 ID:LvRLY+EsO

月にうさぎがいないのは知っているけど、
月にうさぎはよくあっていると思う。

昔の人が勘違いしたのもわかる気がする。


こんなにきれいなんだから。

76 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 11:10:00.56 ID:LvRLY+EsO

「毎日が楽しくないって?」

「そう」

鉄塔のてっぺんに並んで座って、彼と話をする。

でも、彼は自分が何者かは教えてくれなくて、
私の話を聞いて楽しそうにしているだけだった。


77 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 11:20:03.11 ID:LvRLY+EsO

「でも、友達はいるんだろう?」

「うん。だけどね…」

私は、彼になら遠くに離れてみている私のことを話してもいいかな、と思った。

彼になら、何を話しても許してくれそうな気がした。

79 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 11:25:33.22 ID:LvRLY+EsO

「そうだ!いいことを教えてあげよう!」

急に大きな声で彼が言うから、私の大事な決心は消し飛んだ。

「いいことって?」

「暗号さ!」

彼が教えてくれたのは、私とおんなじように退屈していて、
一緒に退屈を吹き飛ばしてくれるような人を呼ぶ暗号だという。

80 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 11:26:42.99 ID:LvRLY+EsO

「ややこしい形ね…覚えるの大変そう」

「そうかい?簡単だよ」


彼は星を並べかえてもう一度空に描いた。
適当な線みたいで、覚えにくい。

81 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 11:41:26.76 ID:LvRLY+EsO

手のひらに何度も練習していると、彼は懐から時計を取り出して取り乱した。

「いけない!もう夜が終わってしまう!」

「えっ、もうそんな時間!?」

彼は急いで時計のねじを巻いたり、月を蹴り飛ばしたりした。

「私に何か手伝えることは?」

「あぁ、ありがとう、でもこれは僕の仕事なんだ
ハルヒは急いで家に帰りなさい、
朝は影について厳しくて、
絶対に許してくれないから!」

「影?」

私は足元を見た。
そういえば、いつも私につきまとっていた影がない。

82 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 11:44:07.96 ID:LvRLY+EsO

「夜は優しいから時々許してくれるけれど、
朝や昼は容赦なく影を作るからね!」

なんで影があるとダメなのか聞こうとしたけれど、
忙しそうに飛び回る彼に悪いような気がしたから
言われた通りに家に向かった。

「じゃあ、またね!」

彼は、軽く手を振って応えてくれた。

83 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 11:47:19.02 ID:LvRLY+EsO

「じゃあ、あの暗号を書いたお札を学校じゅうに貼ったのかい!?」

「そうよ」

あれからまた一週間くらいたった夜、
彼はまた私に会いに来てくれた。
前よりも高いビルの上で、
魚に餌をやりながら話をした。


85 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 11:54:54.35 ID:LvRLY+EsO

「………っ」

「…どうかした?」


「あはははははははっ!
君はすごいな!まさかそんな風に使うなんて!」

彼は長い尻尾をぐねぐね振って、
喉をぐるぐると鳴らして笑った。

今夜、彼は猫だった。

86 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 12:07:14.55 ID:LvRLY+EsO

「なっ、なによ」

「いやね、今まで何人かに教えたことがあったんだよ。
でも、だいたいの人は紙に書いて枕元に置いたり、
お気に入りの本に栞みたいに挟んだりしててね。
まさかこんなに派手にアピールするとはね」

「だからって、なんでそんなに笑うのよ!」

呼吸困難になるくらい笑うなんて。ちょっと拗ねる。

87 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 12:09:35.42 ID:LvRLY+EsO

「あはは、君は本当に変わりたいんだね」

「どういうこと?」

まだ落ち着かない呼吸で、彼は言う。

「変わりたい、って思ったり言ったりしていても、
いざチャンスが与えられたら急に臆病になる人が多い。
いや、ほとんどの人がそうだ。

僕が今まで出会ってきた子どもたちも、
結局は誰かが助けてくれるのをじっと待ってるだけだった。」

へんなの。
私だったら、そんなチャンスいつだって大歓迎なのに。

笑ったはずみで彼がばらまいた餌に、魚がきらきらと群がる。


89 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 12:12:15.54 ID:LvRLY+EsO

「君みたいな人は素晴らしいよ。
きっと君みたいな人が、世界を変えるんだ」


そんな、大袈裟な。

でも、私を見つめる黄金色の瞳は真剣だった。

真っ直ぐで澄んでいて、夜みたいな彼の毛並みに浮かぶ満月に見えた。

90 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 12:14:47.74 ID:LvRLY+EsO

「大人になる時、人はいろんなものを削っていく。
要らないものも、大切なことも。
その要らないものの中で一番大切なものを、
ハルヒはずっと守っていけるよ。きっと」


彼のウインクで、新しく星が生まれた。
魚たちは驚いて、放射状に逃げていく。

91 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 12:16:23.51 ID:LvRLY+EsO

朝、いつのまにかベッドに戻っていて、
頭の向こう側で目覚まし時計が鳴っていた。

頭をはたいて黙らせたとき、ふっと思った。



そうだった。
私もいつか、大人になるんだ。

92 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 12:22:15.56 ID:LvRLY+EsO

ある日突然大人になっているんだろうか。
それとも、気付いたら大人になっているんだろうか。
私は、大人になるんだ。
ぼんやりと、変な感じがした。

93 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 12:26:43.13 ID:LvRLY+EsO

それからしばらく、彼は姿を見せなかった。

96 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 12:36:43.05 ID:LvRLY+EsO

彼がいなくても泳げるんじゃないだろうかと、ベッドから
飛び立ってみたけど、私はすぐに墜落して、下の階で寝ていた
お母さんを怒らせただけだった。

100 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 13:37:02.15 ID:LvRLY+EsO

その朝は、拍子抜けするほど唐突にやってきた。

寝覚めが悪くて、なかなか起き上がれずにいた。

寝直したいけど、時間はどうだろう。まぁ、いいや。そう決心して寝返りを打つ。

不快な感触に、どきりとした。

「え?」


どうしよう、まさかこの歳でしてしまうなんて。

101 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 13:40:10.17 ID:LvRLY+EsO

焦って、身動きができなくなる。どうしよう。
でも、このままじっとしているわけにもいけないし。

おそるおそる、触れてみる。
確実に湿った感触が伝わって、落ち込む。
どうしよう。

違和感に気づいたのはその時だった。

腐ったサビような、鼻をつく臭い。



それに気付いて、瞬間に私は言葉を失った。

102 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 13:44:56.56 ID:LvRLY+EsO

「大丈夫よハルヒ、病気じゃないわ」

私のシーツを片付けながら、お母さんは言う。

「…本当?」

「授業でまだ教わってないのかしら」

こんなこと聞いたことがなかった。
私は顔を横に振る。

「教えておいた方がよかったわね」

103 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 13:49:53.83 ID:LvRLY+EsO

お母さんは優しく、私の頭を撫でる。

「ハルヒは、みんなよりちょっとだけ早く大人になったの。
これはその印なのよ」

ぎゅっと抱き締められた私は、また遠くから自分を見ていた。

抱き締められている実感なんてなくて、
お母さんの腕の暖かさなんて全然届かなくて、
寒いところへ突然突き放されたみたいだった。

105 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 14:36:36.78 ID:LvRLY+EsO

名前を呼ぼうにも、私は彼の名前を知らなかった。

一人でも飛べないかと思ったけれども、
昼も夜も、影がついてきた。

彼がくれた星は、そういえば、あの夜逃げていったままだ。

夕方にまでふらふらやってきた星を見て、
あのときにちゃんと捕まえておけばよかったと、

どうしようもない気持ちになる。

106 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 14:38:38.61 ID:LvRLY+EsO

夜、窓を開けて空を見上げてみる。
空を遮るほどの偉大な鯨も、
月がよく似合う飄々としたうさぎも、
夜そのものみたいな猫も

見つけることができなかった。

107 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 14:39:47.95 ID:LvRLY+EsO

…大人になってしまったから?

大人になって、彼の言っていたものをなくしてしまった?

私の楽しめる場所は、
泳げる場所は夜だけだったのに、
夜しか泳げなかったのに、
夜にさえ許してもらえなくなってしまった。

109 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 15:08:16.51 ID:LvRLY+EsO

今日は月が綺麗。

彼は、あそこまで泳いでみせた。
いつか君も届くよ、と。


今となっては、全部が嘘なんじゃないか、
最初から夢だったんじゃないかと、疑ってしまう。

110 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 15:14:30.37 ID:LvRLY+EsO

きっと、今の私は泳げないほどに重いだろう。

余計なものを捨てて、重くなったんだろうか。


私は、
もう大人なんだろうか。

113 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 16:02:34.75 ID:LvRLY+EsO

すいませんしばらく書けません
夕方には戻ります

121 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 18:15:58.75 ID:LvRLY+EsO

月に手をかざしてみても、残酷なほど遠い距離が
はっきりわかって、余計に寂しくなるだけだった。
もう泳げないのなら、二度と月には届かない。

彼の言ったいつかなんて、来るはずがない。


122 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 18:16:49.06 ID:LvRLY+EsO

指の間から、小さな月が見え隠れする。

嘘みたいにくっきりとした小さすぎる月は、
私の細い指にでも全部隠れてしまう。

頼りなさげな月は、ぼんやりと光る。

123 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 18:17:59.22 ID:LvRLY+EsO

月が現れると、星がぼやける。
月が隠れると、星がよく見える。



星。


124 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 18:19:10.83 ID:LvRLY+EsO

「ちょっと、どこに行くの?こんな時間に」

そうだ、

彼は私に教えてくれた。

「友達ん家!親戚から竹切ってもらったんだって」

星を、並べかえて。

「そう、あんまり遅くならないようにね」


あの暗号を。

125 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 18:20:18.58 ID:LvRLY+EsO

「うん、いってきます!」

描こう。
あの暗号を、彼に見えるように描こう。
遠く離れてしまった月からでも見えるように。


笹の葉に紛れてこっそり願うんじゃなく、
大切な人に届くように。


今日は、願いが叶う夜。
待ち望んで、二人が出会う夜だから。



おわり

127 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 18:23:16.58 ID:LvRLY+EsO

というわけで笹の葉ラプソディ前夜の妄想でした。

タイトルはシオンさんの「夜しか泳げない」ですが、歌詞とはあんまり関係ないです。
中二くさい、絵本っぽいなどの感想、
わりと狙ったので嬉しいです。

145 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/07/06(月) 20:07:01.60 ID:LvRLY+EsO

あ、いい忘れてました。
最後まで読んでくださった方、保守及び支援してくれた方、本当にありがとうございました。

だれも興味ねぇとは思いますが、
ハルヒ「ねぇキョン、ちゃんと私を殺してよね」
とかいうのを前に書いてました。
ありがたいことにまとめてくれた人がいるので、こっちも頑張ったので読んでくださったりすると狂喜します。



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