古泉「あなたの忘れ物です」 1 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/09/30(水) 23:15:56.54 ID:MrnSJV9S0 熱砂が脚に絡みつく。 踏み出す度にのめり込んでは、体力を奪う柔らかな砂地は黄土色をしていた。不用意に掬い上げたなら、器代わりにした掌に火傷を負うことだろう。 直火で砂ごと炙られているようにぎらぎらと反射する、灼熱の光。一片の雲もない空は、絵の具をそのまま絵筆で塗りたくったような濃い青で、「青」と形容するしかない見事な晴れ模様だ。 汗に濡れて開襟のシャツが肌に張り付いているが、もう然程気にはならなかった。上着はとうに脱ぎ捨てて、遥か彼方だ。 地平線に眼を向ける。この仮想的世界には、果てというものがないのだろうか。一面の砂漠には、すぐに埋もれてしまいそうな浅い足跡のみが道程をかろうじて示している。 風もない。草木もない。あるのは砂と、空だけだ。 2 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/09/30(水) 23:17:13.64 ID:QLma9Rpu0 「何処にいるんでしょうね。……彼女は」 干乾びた喉から吐き出した声に、誰かが返事をくれることはない。 時間はない。今こうしている間にも、刻々と秒針は動く。 急がなければならなかった。 5 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/09/30(水) 23:19:32.09 ID:QLma9Rpu0 ……… …… 俺はバスを降りると、寒気に震え上がる身を縮めた。雪の名残に足を取られないように、気を遣いながら歩く。 両手は花束で塞がってるから、余計にな。 長年使い込んでいた冬用の靴を履き潰しちまい、やけに滑らかになった踵は水に濡れただけでスケート靴並みの滑り心地だ。 凹凸のないまっさらなタイル地を踏もうものなら、転ぶ確率も跳ね上がる仕様となっている。そろそろ買い替え時だよな、どう見ても―― 冬場に外を出歩くだけで、こんなに神経を使うんじゃ先が思いやられるというものだ。 思い浮かべたのは、どんな物でも颯爽と履きこなす古泉のことで、俺は自然と苦い顔になった。 くだらないことを考えるのは、余計なことに思索を費やして神経を滅入らせたくないからだ。溜息を飲み込む。 9 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/09/30(水) 23:23:48.64 ID:QLma9Rpu0 見上げた先は、病院のエントランス。年末にも医療業に休息というものはないのだろう、行き来する白衣姿の人々は皆忙しそうにしている。俺は邪魔にならないよう、そそくさと目当ての病室へ向かった。 「キョンくん」 先客がいた。朝比奈さんだ。 オフホワイトのセーターに身を包み、ツイードのスカート。髪は下の方でまとめている。ほんわりとした極上の笑顔は健在で、俺は不安定であった気分が、現金にも浮上するのを感じた。 「おはようございます、朝比奈さん。早いですね」 「なんだか眼が覚めちゃって。家にいても落ち着かないから。……きれいなお花ですねぇ」 青い花を人差し指でつついている朝比奈さんに、俺は抱えた花束がよく見えるよう、持ち上げて見せた。 赤、白、黄、ピンク、その他エトセトラ。名も知らぬ、色彩の鮮やかな花々が芳香を振り撒く。 「それはネモフィラっていう花だそうです。俺も詳しくは知らないんですが」 11 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/09/30(水) 23:26:39.89 ID:QLma9Rpu0 生憎、花のことはまるで分からない。花屋に薦められたまま購入した際に説明は受けたが、半分も頭に入らなかった。 青い花の名を記憶したのは、偶々、持ち寄ろうと思っていた病人のイメージに、ぴたりと副う色合いをしていたからだ。 「あたし、花瓶に活けてきますね」 「いや、これくらいは自分でやりますよ」 「ううん。キョンくんは、長門さんについててあげてください」 そう押し切られるように言われてしまうと、俺としても反論姿勢は見せにくい。 朝比奈さんは空の花瓶――前に活けてあった花は枯れてしまったので看護士が取り替えたらしい――を危なっかしく抱え込んで、病室を出て行った。 15 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/09/30(水) 23:34:06.56 ID:QLma9Rpu0 俺は大人しくベッドの傍へと寄る。 身動ぎ一つせず、まるで百年前から変わらず、眠り続けているかのような生気の薄さで、長門有希がそこに眠っていた。 俺は無意識に男の姿を捜してしまう。しかし、あいつが「帰ってきた」様子はない。 当たり前か。朝比奈さんだって、何も言ってはいなかったんだ。あいつ、古泉が無事に帯びた任務を達成して帰還したなら、当事者である俺に機関員から何がしかの連絡が入る筈だった。 考えても仕方ないことと押し込めてはいたが、焦燥感は隠しようもない。 まだ時間はあると、悠長に数えて今日が六日目だった。 設けられたリミットは、明日。明日までに古泉が何とか出来なければ、長門は―― 37 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/09/30(水) 23:59:33.88 ID:QLma9Rpu0 思い返す。六日前、長門が突如、倒れた日。 血相を変えた俺たちに、長門の同輩である喜緑さんは余りに平静だった。笑顔そのものが貼り付けられたような変化のなさで、 平素なら頼もしい筈のその冷静さが、逆に不気味に感じられたくらいだ。 喜緑さんは言った。 『申し訳ありません、皆さん。でも、これは仕方のないことなのです』 『統合思念体は、長門さんの破棄を決定しました』 41 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 00:07:41.94 ID:FjC6AP4h0 握り締めた指が白くなるのさえ他人事のようだった。 揃っていたのは四人。俺、朝比奈さん、古泉、そして喜緑さんだ。 ハルヒはいなかった。後で知ったことだが、機関の方の配慮だったらしい。 長門が収容された病室の前で、俺は出したくもない大声を出した。ふざけているとしか思えなかった。 喜緑さんは涼しげに、ただ笑っている。 「そっちがそういうつもりなら、俺は俺がジョン・スミスだとハルヒにぶちまける。今すぐにだってだ」 「そうですね。そう来られるのは予測済みです」 喜緑江美里は、信じがたい事を口にした。 「どうぞ、お好きになさって結構ですよ」 42 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 00:15:39.22 ID:FjC6AP4h0 沸騰して脳神経が引きちぎれるところを、冷水をぶっかけられた。そんな切り返しだった。 二の句が告げない、茫然とする俺の前に立ったのは古泉だ。 「それは……涼宮さんの力を、もはや思念体は危険視していない。そういうことですか?」 「どうとでも受け取って頂いて構いません。ただ、そうですね。今、涼宮さんにあなたがたが何を言ったところで、何も起きはしないでしょう。そういうことです」 「……なるほど」 何を納得してるのか知らんが、俺にも分かるように説明してくれ。 ハルヒパワーを利用できないなら、長門の廃棄は回避不可能になっちまう。ジョン・スミスは、思念体相手であっても有効な最後の切り札なんじゃなかったのか? 古泉は真剣な面差しを崩さず、俺をちらりと見た。 「……常々、考えていたことがあるんです。『長門有希』は、一体何者であるのかをね」 48 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 00:26:54.73 ID:FjC6AP4h0 何者、ときたか。 長門の弁を借りれば、長門は情報統合思念体によって作られた、対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェースである。 そこに「日常」を付け加えるなら、長門は北高に通う無口な女子高生で、文芸部の部長であり、SOS団団員その2でもあるわけだ。 だが、古泉が言いたいのはそういう次元の話ではなさそうだった。 古泉は底冷えするようなシリアス声で、 「以前、あなたにはお話したことがあるかと思います。長門さんはTFEIの中でも、特別な地位を築きつつあるようだという話を。 彼女は統合思念体から派遣された端末という枠に収まりきらない、オンリーワンだと。 それは彼女がSOS団に組みし、涼宮さんに近しくある、ということに起因するわけですが……それにしては、不思議だったんですよ」 古泉はどうやら喜緑さんの反応を窺ってるようだ。当の彼女は微動だにしちゃいないが。 56 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 00:35:31.27 ID:FjC6AP4h0 「一年時の十二月。あなたも巻き込まれた、長門さんの改変世界。あれは、涼宮さんの力を流用したものでした。 ――涼宮さんの力を利用する、……普通の人間にはほぼ不可能と言っていいそんなことが、既に長門さんには出来ていた。 そしてあの改変世界が長門さんの純然たる意思のみで構成されたものであったというなら、それが思念体の予測の範疇になかったというなら、 その後、長門さんを処分しなかった思念体の行動は不可解そのものです。いくらあなたが涼宮さんの力を盾にしたとしても、です」 俺は背筋が寒くなった。 ぼんやりと理解し始めていた。古泉が一体何を言いたいのか。 「……結論を言いましょう。僕の仮説はこうです。 長門さんは、『涼宮さんの力を利用し、最終的には思念体が涼宮さんからその力を簒奪するため』、 そのためだけに作られた唯一の実験体なんですよ」 58 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 00:50:00.87 ID:FjC6AP4h0 俺は震える声を誤魔化すように、唇を噛んだ。 「……お前、本気で言ってんのか、そいつを」 「ええ。いたく本気です」 「長門が――俺たちを利用するために作られた、と?」 「長門さんご自身の意思の在り処までは分かりませんが。恐らく、その事実は知らされていなかったと僕は思います。 彼女の任務が涼宮さんの観察行為であることにも、また間違いはないでしょう。 この急な長門さんの抹消の決定は、今度こそ、思念体の意図する範囲内から、長門さんが外れた行動を取ってしまった故とすれば辻褄が合います。 例えば、再度エラーの暴走を引き起こし、涼宮さんの力を長門さんが現時点で吸引してしまったとするなら」 『今、涼宮さんにあなたがたが何を言ったところで、何も起きはしないでしょう。』 喜緑さんの台詞が蘇る。 今のハルヒには、じゃあ、何の力もないってことなのか。 63 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 01:02:16.59 ID:FjC6AP4h0 「これは元々、僕の胸のうちにあった仮説に過ぎません。ですが――先ほど、確信に至りました」 古泉は長門の眠る病室を、その扉を振り返る。 「倒れた長門さんに接触した際に、分かりました。何時もとは種の異なる、しかし同じ肌触りをした閉鎖空間が展開されていました」 「閉鎖空間……ってまさか、長門がハルヒの能力で構成したってことか…?何処にだ!?」 古泉が応える前に、微笑を絶やさぬ喜緑さんが、答えを引き継いだ。 古泉の推測総てを肯定する形で。 「――閉鎖空間は、長門さんの中に」 73 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 01:15:26.43 ID:FjC6AP4h0 トーンの変わらない声で、喜緑さんは俺達を眺め回す。 「そこまで憶測で辿り着くとは、驚きました。出来ることなら、何も知らぬうちに納得をして頂きたかったのですけど。そうはいかないようですね」 「じゃ、じゃあ、やっぱり…!」 朝比奈さんが脅えと敵意の入り混じった目をきっと向ける。 喜緑さんはあくまで穏当に、その視線をかわしてみせた。眼中にない、とでも言いたげである。 「長門さんは限界に近いエラーに蝕まれています。……元々、彼女は不安定な個体なのです。涼宮ハルヒの能力を察知した思念体が、初めて投入した試作でしたから。 ですから想定外の事が起きた場合に備え、バックアップも付けたんですよ。彼女も暴走してしまいましたけれど。 ――お分かりでしょう?エラーにより涼宮さんの力を備えた長門さんが、一体何を引き起こすのか、誰にも分かりません。 今度は本当に思念体を消滅に追い遣るかもしれない。いえ、もしかしたら思念体だけでなく、この世界そのものをも」 「だから消す?あんたらが長門に、ハルヒの力を奪えるような機能をつけたんだろうが…!都合のいいときは利用して、暴走したら捨てるだと?長門を何だと思ってる!」 80 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 01:32:53.84 ID:FjC6AP4h0 長門の親玉に関しては、以前からクソッタレと中指を突き上げてやりたいことが多かったが、今までの俺の意識のなんと生温かったことか。 長門は物じゃねえ、確かな人格があり、いざというときに頼りになる俺たちの仲間だ。 一度壊れたら捨てて、また新しく作る――そんなニュアンスで、長門を語るな。誰が何と言おうと俺が赦さない。ハルヒも朝比奈さんも古泉だって、同じ気持ちの筈さ。 だが怒り心頭の俺を制するように、古泉の腕が俺の前に突き出される。 「……何のつもりだ、古泉」 「いえ。今のあなたは、すぐにでも喜緑さんに殴りかかりそうな形相でしたので。……冷静になってください」 理性をなくすほどブチ切れちゃいないぜ。拳は震えてるけどな。 「交渉の機会をみすみす逃しますか?」 古泉はそのとき、今日会って初めて笑みを見せた。 82 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 01:40:33.63 ID:FjC6AP4h0 SOS団副団長の顔つきだった。ハルヒにくだらん暇潰しの提案をするときの、楽しげな、策士の顔だ。 古泉がこういう表情を俺に見せるなら、そこにハッタリではない勝算を見込んでいるということ。 あるのか、古泉。 この八方塞の状況下で。 ――いや、何だっていい。長門を救う手段があるなら、幾らだって賭けに乗ってやる。 俺の目で意図を読み取り、古泉は一つ頷くと、喜緑さんに向き直った。 「喜緑さん。こちらから提案があります」 「……なんでしょう?古泉さん」 「長門さんの廃棄処分日を、延長して頂きたいのです」 83 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 01:48:17.01 ID:FjC6AP4h0 お互い、驚くほどクールだ。交し合う視線に熱がない。交渉の声さえ普段のままの古泉の豪胆さには恐れ入る。 伊達に修羅場は潜ってないということらしい。 「長門さんの廃棄を一時期延ばす……その行為に、我々に何のメリットがあるのでしょう?」 「長門さんを処分せずに済む可能性の、飛躍的な上昇です」 「……」 喜緑さんが考え込むように俯く。――どういうことだ? 「長門さんが幾ら試作といっても、数年以上『進化の可能性』涼宮ハルヒの傍にあったのです。彼女自身にも何らかの変化があったはず。 これまでの実績から言っても、判断力・分析力ともに長門さんは優秀な個体ですよ。思念体も、エラーという負の要素さえなければ、手放したくはなかった筈です。 なにせ今度は、一から作り直さなければならないのですから。それが長門さんよりも完成されたものになると、誰が推断出来るでしょう?」 84 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 02:00:33.61 ID:FjC6AP4h0 なるほど。思念体にとって、長門が暴走状態にまで陥るのは不本意だったと。 12月の改変世界は、朝比奈さん(大)が大よそを知っていたことからしても、織り込み済みの話だったのだろう。 元の、ハルヒを中心にめまぐるしく回転する世界に戻るのは、言うなれば規定事項。だから一度は消滅の憂き目に遭うことが分かっていても、敢えて長門を放置した。 「……長門さんのエラーを自分なら除去できる。そう言いたいのですか?」 「少なくともあなたがた思念体よりは、成功の可能性が高いかと。――僕は、『超能力者』ですから。 銀河を統括する思念体一派の端末であっても、閉鎖空間に侵入することは叶わない。ならば、プロフェッショナルに一度任せてみるのも手ではありませんか?」 古泉の発言に、喜緑さんは長く黙考していた。 もしかしたら思念体と連絡を取り合ってでもいたのかもしれないが、傍目には突っ立っているだけだけで変化は読み取れない。 俺としては思念体の、胸糞は悪いが長門への慈悲に縋るしかない。 朝比奈さんが胸に手を当てて、祈るように目を閉じている。 古泉の眼差しはまた無表情に帰っている。 86 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 02:12:12.81 ID:FjC6AP4h0 息苦しさを覚えるような、無言の十数分。 「――分かりました」 喜緑さんが、沈黙を切り崩し、微笑みを深めた――ように見えた。 「七日間、猶予を設けます。……これが長門さんを救える、思念体が譲歩できる限界です。 七日を経過した時点で、長門さんのエラーが除去され彼女が復調していない場合、予定通り長門さんの廃棄に踏み切ります。よろしいですね?」 「……十分です」 古泉が、張り詰めた目元を和らげる。朝比奈さんもほっと息を緩めていた。 喜緑さんは軽く会釈すると、踵を返し去ろうとする。俺は、咄嗟に彼女の後姿を追って、声を上げた。 「――喜緑さん!」 「……まだ、何か?」 87 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 02:19:21.23 ID:FjC6AP4h0 喜緑さんに目立った差異など何処にもない。淡々と、会長書記をやっていた際のように振舞っている。 だが、壊れた駒には何の価値もないというスタンスを見せていた彼女は、『救える』、という言葉を、長門に対して用いた。 俺の考え過ぎだろうか? 同輩である長門に対し、僅かにも長門のことを気に掛け、出来るならばまた元の通りに生きて欲しい―― そんな想いが、彼女の無意識の根底にも、あるんじゃないかと希望を抱くのは、俺の傲慢だろうか? 「……感謝します」 俺の台詞に、喜緑さんは、百合を思わす甘い笑みを浮かべた。 88 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 02:23:20.63 ID:FjC6AP4h0 「……長門さんを、よろしくお願いします」 喜緑さんは、ゆっくりと歩み去る。 俺はその背をただ、見つめていた。 90 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 02:42:43.76 ID:FjC6AP4h0 ……… …… 脚が重い。熱さにやられたのか、思考が覚束ない。視界が汗で遮られる。 一時間――二時間――それ以上か。砂場で引き摺るように徒歩を続け、体力に限界が迫り始めた。 腕時計は狂っており、携帯も異空間にあって元来の機能を失っている今、現実世界でどれほどの時間が過ぎたかを計るものは何もない。 侵入自体はすんなりいったものの、誰かを同伴するだけの力はなく、僕は長門さんの閉鎖空間内を一人で散策している。 散策、といっても、同じ風景を延々見続けているだけだ。 涼宮さんの閉鎖空間で適応される、光の玉になる能力も、ここでは著しく制限を受けるようで、飛行が可能なだけの力は集約できない。 「困りましたね……」 まだ第一関門のような気がするのだけれど。どうにか突破口を見つけなければ、長門さんを救うことなどとても出来はしないだろう。 91 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 02:51:18.19 ID:FjC6AP4h0 ――見渡す限りの、灼熱の砂漠。 僕の想定にあったあらゆる事象と、その光景は絶望的にかけ離れていた。 エラーに浸食されているとはいえど、長門さんの内面の世界と言っても過言ではないだろうに。何も産まれぬこんな不毛の地が、彼女の内側には広がっていたのだ。 こんな空漠を、彼女は心に隠匿していた。それを思うと、どうにもやるせない。 長門有希は、孤独だったのだろうか。 あれだけ賑やかなSOS団の皆に囲われていた時も。 94 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 03:12:21.02 ID:FjC6AP4h0 「――っ!」 砂に取られた片足を抜く前に、バランスを崩す。前のめりに倒れ込みかけ、踏ん張ろうとしたが膝下の力も限界で支えきれない。頭から熱砂に突っ込んで、その拍子に砂埃が舞い散る。 直に触れた砂の熱に、声にならない悲鳴を上げた。 皮膚が爛れる…! 慌てて起き上がるも、その一回の転倒で奪われた体力は相当なものだった。身体を動かすのが億劫で、それでも気力を振り絞り、何とか立ち上がる。 ……何をやってるんだ、僕は。 こんなところで、愚図ついていても仕方がないというのに、身体が言うことを聞かない。今の僕に出来るのは、ひたすらに此処を歩くことだけ。気合を入れなおさなければ。長門さんはこの世界の何処かに、必ず居る筈なのだから。 呼吸を整え、もう一歩、右足を踏み込んだその先に。 僕は目を瞠った。 ――大きな、黒い影。 100 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 03:21:40.16 ID:FjC6AP4h0 日頃から鍛えていた故の瞬発力に僕は感謝した。咄嗟の判断で大きく後方に飛びのくのとほぼ同時に、上空から、黒い巨躯が僕めがけて体当たりをしてきたのだ。 反応出来なかったら、原型を留めずに僕の身体は潰れていただろう。生きたままひき肉だなんて、笑えない冗談だ。 黒光りする、その巨体はよく見れば濃い茶色の縞模様で、逆光で完全な黒色に見えていたらしいと知る。 何にせよ、懐かしい対面だった。 「――いつかのカマドウマ、ですか」 それも凶暴性が明らかに増していた。縺れそうな足を叱咤し、砂の上を駆ける。 カマドウマは長い脚を跳ねさせて方向転換し、僕の方へ跳躍する。 砂塗れの身に、更に白い砂がばらばらと降りかかり、視界を遮る。腕で庇う暇もない。 いつまでも逃げられはしない。ならば、ここで。 104 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 03:38:15.63 ID:FjC6AP4h0 影が僕を飲み込む。――カマドウマが落ちてくる。 「――ふっん!」 精神を集中させ、今発揮できる限りの力を、一点に籠める。 ビー玉ほどのサイズが、サッカーボール並みの球体へ。 その時、僕を後押しするような、突風が吹いた。 視界を悪くしていた砂埃が一瞬にして取り払われ、青い空をバックに、今まさに落下途中のカマドウマの全容が目に飛び込んでくる。 僕は躊躇わなかった。 「もっふ―――!」 カマドウマの脚を目が捉えた瞬間、サーブを叩きつける要領で、僕は赤い光球を思いっきり打ち上げた。 球は回転しながら、腹部に直撃。 その衝撃で、カマドウマの身は見事に弾け飛んだ。 105 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 04:01:28.55 ID:FjC6AP4h0 吹っ飛んだカマドウマの巨体が、地響きを立てて地面に着地する。 ……そこまでを見届けるのが精一杯だった。 かろうじて残っていた体力を、今の戦闘で使い果たしてしまった。身体が、傾ぐ。眼を開けていられない。 何度も襲って来られたら持たないと考えて全力を出したが、第二第三のカマドウマがやって来ないとも限らない。 なるべく早く体勢を立て直さなければと思う心に、疲弊し切って休息を求める身体が追いつかない。 ……ここで、気を失うわけにはいかない。いかないのに。 駄目だ、意識が、保てない……。 106 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 04:12:47.59 ID:FjC6AP4h0 ふらついた身体が地面に倒れこみ、僕はまた熱砂に身を焼かれる――筈だった。 砂の中に倒れ込んだ身体が、違和感の正体を悟るのはすぐだ。 ……熱く、ない? 泥沼の中で足掻くような気分で、重たい瞼を抉じ開ける。 僕が倒れていたのは確かに砂の上だが、先程とは様子が違う。 音が聴こえた。 周囲を一々不審者のように見回して、状況を確かめる必要もなかった。それは僕の目前に泰然として、茫洋と広がっていたのだから。 「海……」 しかも、見覚えがある。2年の夏休みにSOS団が総出で行った海だ。わざわざ電車を乗り継いで、県を跨いで。 提案したのは涼宮さんで、「こちらのレジャースポットはどうでしょう」と段取りを決めたのは僕だった。 110 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 04:26:17.78 ID:FjC6AP4h0 夜の海。月明かりが美しい――人気のない、海。 ――砂漠から海浜へと変貌した世界。あのカマドウマを滅することが、世界を切り替えるキーだったのだろうか。 僕は疲労困憊であった身が、幾らか力を取り戻していることに気付いた。全快とまではいかないが、動けないほどではない。 上体を起こす。独特の浜の匂いは嗅ぎ慣れない。余り長居はしたくなかった。 何かありはしないかと辺りを探ろうとして、耳に馴染んだ少女の声に動きを止めた。 「――ほら、有希も!ここまで来たんだもの、泳ぎましょうよ!」 113 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 04:48:30.10 ID:FjC6AP4h0 左方に目を遣る。 涼宮さんがいた。僕も、「彼」も、朝比奈さんもいる。皆一様に水着姿だ。 このやり取りも覚えがあった。海に来てもペーパーブックを開いている長門さんに業を煮やした涼宮さんが、「折角ここまで来たんだから」と彼女を海に誘ったのだ。長門さんは読書に熱中していて、結局、誰の声にも動こうとはしなかったのだけれど。 「―――おや?」 僕は目を瞬いた。見間違いかと思ったが、そうではないらしい。 長門さんが、涼宮さんに腕を引かれ、海へと小走りに向かっていく。 涼宮さんは眩い笑顔で海に飛び込み、長門さんも続いて、打ち寄せる波に素足を濡らし、やがて海の中へと沈んでいく。 「僕ら」はその光景を、仲のいい姉妹を見守るように、微笑みながら見送る――― 116 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 04:59:49.90 ID:FjC6AP4h0 僕の記憶とは、微妙に展開が異なっているようだ。この食い違いは一体何なのだろう。 海で涼宮さんと戯れて、魚のように思うまま泳ぐ長門さんは、心なしか普段よりも楽しそうだった。 閉鎖空間で見る、事実とは微細なズレのある思い出。 ――これが、長門さんの望んだ世界なのだろうか。 神に等しき力を涼宮さんから得てまで、変えたかった過去の一部。 そのささやかさは、僕の胸を痛めた。 150 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 11:21:26.03 ID:lWlrP0U+0 ざっと、海面を波立たせる潮風が吹く。ぼんやり棒立ちになっていたら、吹き飛ばされてしまいそうな勢いのある風だった。 僕は咄嗟に目を瞑る。 涼宮さんの歓声が遠くなる。 154 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 11:32:23.84 ID:lWlrP0U+0 ――場面がまた変わった。 薄く目を開けて確かめたそこは、柔らかな日差しが降り注ぐ昼時で、不思議探索の際によく利用する並木道だ。 少し肌寒いのは、気候にも変化があったためのようだ。海浜に赴いたのは八月の上旬、「今」は想像するに十月の下旬から十二月にかけての記憶、といったところか。 落葉が絨毯のように敷かれた散歩道は、秋季の移り変わりを象徴する。 踏みしめた先から、乾いた葉の割れる小気味いい音が響く。 156 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 11:40:24.00 ID:lWlrP0U+0 長門さんの姿は、すぐに見つかった。朝比奈さんと一緒だ。 上辺を取繕う、本音を偽るという処世術に不得手な朝比奈さんは、長門さんとの距離を一定に保ち、時折怯えるような素振りを見せている。 長門さんは朝比奈さんを意に介さず、淡々と歩みを進めていく。 ここまで極端にお互いに慣れていない時期といったら、SOS団結成初期、長門さんが一年の時だろうか。彼女が二年に進級してからは、長門さんと朝比奈さんはそれなりに打ち解け始めていたように思う。 二人は僕のすぐ傍らを通り過ぎていったが、彼女たちに僕は見えていないようだ。 僕は長門さんの記憶に齟齬を齎す存在だろうから、当然ではあるのだろうけれど。 160 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 11:46:26.14 ID:lWlrP0U+0 「きゃぁ!」 可愛らしい悲鳴をあげて、水溜りに足を滑らせた朝比奈さんが派手に体勢を崩した。 そのままなら転んで服を汚してしまうところを、尻餅をつく直前で引き止めたのは、即座に朝比奈さんの前に移動した長門さんだ。 「……あ……」 朝比奈さんは頬を朱色に染め、俯く。 「あ、ありがとう、長門さん」 「………」 長門さんは無言。 長門さんの手に掴まったまま、元のように立ち上がる朝比奈さんの無事を確認すると、再び長門さんは歩き出す。 164 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 11:54:13.33 ID:lWlrP0U+0 朝比奈さんは長門さんの背後で、また暫く距離を空けて歩いていたが、 並木道を下り終える頃になって、意を決したように面を上げた。 「なが、な、長門さん!」 「………」 歩を止めた長門さんが振り向く。朝比奈さんは反射的に居竦まるが、それでも掛けようとした言葉を飲み込んでしまうことはなかった。 「あ、あの。む、む、向こうの商店街で、あ、新しいクレープ屋さんができたんですっ」 「………」 「助けてくれたお礼に、その、もし、長門さんが良かったら……」 「………」 「一緒に……」 「………」 165 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 12:04:52.06 ID:lWlrP0U+0 反応のなさに、声が尻すぼみになる。 自信がなさそうに表情を曇らせ、泣きそうな朝比奈さんを、長門さんは興味深い交誼に遭遇したとでもいうように、無表情に見つめていた。 「………」 どれだけの時間を、思考に割いたのか。 たっぷり数分をかけた後、長門さんが肯いた。 注視していなければ分からないような動きではない。はっきりと、目に見える形での首肯だ。 朝比奈さんの表情がぱっと明るくなる。 168 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 12:16:35.79 ID:lWlrP0U+0 「あ、ありがとうございます…!じゃあ、いきましょう。今の時間ならきっと、並ばないで買えると思うから。 あそこのお店は、ストロベリーと生クリームの組み合わせがとっても美味しいんですよ〜」 「……そう」 「……実は、教えてくれたの、涼宮さんなんです。機会があったら、三人で一緒にいきたいなぁって」 「……そう」 「長門さん、甘いもの、好きですよね。本当はもっといろんなところ、回りたいです。美味しい洋菓子のお店、とか……」 「わたしも」 長門さんの眼は、静かであるのに、酷く優しい印象を受けた。朝比奈さんを長門さんなりに気遣い労わっている。それが滲んで見える――現実では、決して見えなかった長門有希の本質。 二人はそれからクレープ屋に赴き、頼んだ二種類を半分に分けて食べあった。 朝比奈さんも長門さんもとても幸せそうで、それを見ているだけの僕も、不思議と満たされる。 これが夢と同義のものと忘れそうになるくらい、平穏で満ち足りた光景だった。 180 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 12:36:12.73 ID:lWlrP0U+0 僕らの監視のないところで、こんな穏やかな時間が、彼女たち二人の間に流れていたのだろうか。 それとも、これは、先程の海での改竄と同じように……? 思考する僕の目の前で、映像が砂嵐に遭ったかのように一瞬にして乱れ、朝比奈さんと長門さんの姿が消える。 『――だわ。――?』 知らぬ女の声が、反響する。 181 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 12:40:43.64 ID:lWlrP0U+0 ……まただ。また、場面が変わった。 僕は草原に立っていた。此処は、知らない。来たことのない場所だ。 風のない時がない。常時吹き抜ける涼風に、かさかさと草葉の擦りあう音がする。 「彼」がいた。――「彼」と背中合わせに座る、長門さんも。 183 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 12:53:09.04 ID:lWlrP0U+0 「お前にはいつも、苦労ばかりかけてるな。俺たちは」 「………そんなことはない」 「いや。今度の事だってそうだ。いの一番にお前を頼って、それが結局お前の負担になる。それが分かってて、俺は……。 朝比奈さんに叱られたよ。もっと長門の気持ちを考えてやれって」 「わたしは、わたしが望むことをしているだけ。あなたが気に病むことは何もない」 「――本当にそうか?戦うことも、観察も、俺達を守るために身を粉にすることも、その全部が、お前の望みか?」 「………」 「他に、あるんじゃねえのか。長門。欲するものがあるなら、俺達に遠慮なんかするな。お前はお前の望みに、もっと忠実になっていいんだ」 184 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 13:01:02.50 ID:lWlrP0U+0 長門さんが震えた。 「彼」には見えていないだろう。 二人の視界に映らない僕が、長門さんの隣に立ち、その横顔をつぶさに観測できた僕だけが。 彼女の無表情の下で、何かが爆発的に膨れ上がりかけているのを――それを長門さんが必死に押さえ込もうとしているのを見ていた。 無言のうちの、それは凄絶な葛藤だった。 誰も知らない。誰も、知らなかった。きっと今この瞬間まで。 僕が彼女の中を探索するまで。 186 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 13:16:08.33 ID:lWlrP0U+0 「わたしは」 「――うん?なんだ、長門」 「彼」の声は、瞼を閉じて聴けば、まるで恋人が内気な彼女を励ますときに笑って投げ掛けるような、そんな風にさえ聞こえた。 親愛と恋愛の狭間は曖昧だ。密度が高まらないほどに彼は優しく、だからこそ残酷だった。 長門さんを塞き止めていたものは、もう役割を失っている。 「わたしの望みは」 長門さんが、感情を上乗せした声で、言葉を紡ぐ。 188 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 13:26:51.41 ID:lWlrP0U+0 僕は耳を澄ます。彼女が何を言うのかを、僕は恐らく分かっていて――それでも、聴かずにはおれなかった。 だが、そこでまたノイズが走る。 灰色の砂嵐に巻き込まれて、「彼」の姿も長門さんの姿もあっという間に掻き消える。 『――なのね。――は、本当に――』 女の声。再び場面が変わる予兆だ。 長門さんの内面は場面場面を繋ぎ合わせた、一本のフィルムのようだった。 今度は、何を見ることになるのだろう。 192 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 13:37:38.64 ID:lWlrP0U+0 身構える僕の前に構成された世界。……僕は頬を打つ水の感触に、天を仰いだ。 雨が降っていた。 その遭遇は、偶発的であったのだろう。 長門有希は、足を止めていた。 コンビニの軒下、自動販売機の影。落ちた暗がりに身を隠すように、頭を抱え込んで子どものように蹲る少年を前にして。 顔を伏せ、身体の至る所に包帯を巻きつけ、傷だらけの掌を晒した少年―― 僕はそこに、僕を見ていた。 200 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 14:01:40.92 ID:lWlrP0U+0 記憶にもある。 これは五年前の冬だ。まだ中学生で、閉鎖空間処理に不慣れな時に負傷した。 真っ直ぐ自宅に帰る気にもなれず、ふらついていたところを雨に降られて、寄ったコンビニの軒先に蹲って雨が止むのを待っていた。 このまま呼吸が止まってしまえば楽になれるだろうかなんて、後ろ向きなことを自虐的に考えていた、かつての僕。 長門さんはこのとき、北高に転入し彼女と接触が生まれる以前より、僕を見掛けていたらしい。 気付かなかった。僕は顔を伏せていて、誰が前を通ったかなんて一々見てはいなかった。不躾な視線も、知らぬふりをしてやり過ごしていたから。 僕が長門さんを知ったのも、機関で渡された資料の写真が最初だ。 205 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 14:12:27.96 ID:lWlrP0U+0 長門さんは顔を上げる様子のない僕に、静かな視線を注いでいる。 彼女はコンビニで、夕食を買った帰りのようだ。ビニール袋を片手に、もう片方の手には折り畳みの傘を持っていた。 その彼女が、不意に動いた。 「…………え?」 僕は唖然として、声を漏らす。 激しい雨が地を叩く中で、長門有希が、その折り畳み傘を僕の目の前に置いた。 音を立てぬように、そっと。 210 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 14:22:57.98 ID:lWlrP0U+0 ここは覚えがない。――誰かに傘を貸された記憶もない。 僕は結局夜が明けるまでそこにいて、朦朧とする意識に漸く自分に熱があるらしいと気付いて。雨の中を走って、濡れ鼠になって帰ったのだ。 その後は数日間、高熱が下がらずに寝込んだ。森さんにこっぴどく叱られたから間違いない。 傘を僕に無言で貸し出した長門さんはそれから、雨を全身に浴びながら帰途につく。 ふと面を上げた「僕」は、何時の間にか置かれていた折り畳み傘に目を丸くし、それが誰かの好意であると知って、息が詰まるほどの喜びに咽ぶ。 持ち主に感謝を述べ、傘を借り受けて、家へと急ぐ……。 きっとこの「僕」は、風邪を引くことはなかったに違いない。 ……これは過去にあった事実ではない。やはり、脚色されている。 長門さんがより人間らしく、細やかに描写されている。 僕には理解できたような気がした。 この世界が、長門さんにとって一体何なのか。 214 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 14:53:17.19 ID:lWlrP0U+0 ……… …… 『不思議だわ。どうして、―――さん?』 『結局、変わらないままなのね。世界は、本当に――』 ――女の声が、明瞭になる。 『だから』 『あなたを殺して涼宮ハルヒの出方を見る』 215 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 14:55:22.90 ID:lWlrP0U+0 ――砂嵐を過ぎて、場面が切り替わる。 僕は眼にした風景に対し、感嘆の代わりに白い息を吐き出した。 雨の降る夜から、極寒の銀世界へ。穢れのない雪に覆い尽くされた世界。 ここまで見事な一面の雪景色を訪ねられる機会は、生涯のうちに何度あるだろうか。そもそも此処が実在する場所なのかどうかも怪しい。 純白の化粧を施された園は、幻想的で、現実味がない。 寒さすら感じないのは、この世界がそう作られているからなのか、自分の感覚が死に始めているからなのか。 吹雪いている、雪原に立つのは僕と、目の前に一人の少女。 ……朝倉涼子。 218 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 15:07:27.24 ID:lWlrP0U+0 朝倉涼子は、ナイフを握り、笑みを浮かべている。 実際に対話したことはないが、「彼」から体験談だけは聞かされていた。殺されかけ、長門さんに救われた。あの日の恐怖は、今も記憶に根深く食い込んで消せやしない、俺のトラウマだと。 ――長門有希にとってはどうだったのだろう。 朝倉涼子は、彼女が生まれたその日から常に長門さんのバックアップであり、長門さんの傍らにあり、そして彼女が自ら消滅させた同輩だった。 生まれた歪は修正出来たのか? 何の瑕疵も残さず? 長門有希を暴走に至らしめたエラーは、一体何処で生まれた? 219 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 15:15:49.58 ID:lWlrP0U+0 「ねえ、あきらめてよ。結果はどうせ同じことになるんだしさあ」 朝倉涼子が笑う。TFEIに特有の、感情をまるで面に表さない、形だけの笑顔。 ある種、僕の仮面にも似ている。 「死になさい」 朝倉涼子が疾駆する。 目で追い切れないような途方もないスピードだった。一直線に向かってくる、ナイフを僕に突き立てるために。 手段ならあった。能力を駆使すれば、そこから離脱することも、彼女を迎え撃つこともできただろう。 だが、僕は避けなかった。 220 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 15:28:52.15 ID:lWlrP0U+0 浜辺で一人、読書をする。 ふと彼等を見つめると、仲間達は水中で馬鹿騒ぎをして笑いあっている。 自分と一緒に泳ぎたいとしきりに訴えていた涼宮ハルヒが、満面の笑みを浮かべ、朝比奈みくるに水を浴びせている。 ―――肯いていたら、彼らと共にわたしも笑えただろうか。長門有希は考える。 彼女はよく転ぶ。 二人きりの不思議探索、朝比奈みくるが水溜りに気付かずに足を滑らせて転んでしまう。 服が汚れてしまった。泥を落とさなきゃ、と半泣きになっている朝比奈みくる。 助けようと思えば助けることが出来た。でも、朝比奈みくるはわたしを怖がっているようだったから、接触を受けるのは不快かもしれない。 ―――少しの勇気を行動に移せていたら、朝比奈みくるの笑顔が見られただろうか。長門有希は考える。 「彼」は優しい。 ふたりだけの時間は幾度となくあった。わたしに穏やかに指針を示すのは常に「彼」だ。 だが――わたしはその生ゆえに、任務ゆえに、わたしの想いを出力することは赦されていない。 ―――想いを解き放つことが出来ていたら、「彼」は、わたしの望む言葉をくれただろうか。長門有希は考える。 221 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 15:39:38.11 ID:lWlrP0U+0 傷つき伏せた超能力者の子どもに、傘を手渡せる「優しさ」が、あの時の自分にあったなら。 朝倉涼子がわたしに向けていてくれた想い、感情を、あの時の自分が理解できていたなら。 後悔していた。 何度も何度も、繰り返し、長門有希はきっと、後悔した。 それは彼女の成長した自我によるもの。出遭ったばかりの頃なら、思いも馳せなかっただろう感情を知った故の懊悩だった。 ――彼女が「人」に成るために、必要な苦悩だった。 だから。 222 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 15:58:23.92 ID:lWlrP0U+0 ぱきり、と、何かが割れる音がした。――雪の上から、踏んでしまったらしい。 ぐりぐりと深くめり込んでいく刃。シャツが瞬く間に血に染まる。激痛が腹を焼く。 冷たい白色しか存在しないかのように思われた世界に、生じた熱い赤のコントラストは鮮烈なものだった。 寒さは感じないのに、熱さと痛みは鮮明だ。 指先が震えたが、どうにか腕を伸ばし、朝倉涼子の背へと回す。 出来るだけ優しい声になれるよう努めた。 長門さんのイメージにある、「彼」の声からは程遠いものかもしれないけれども。 「……も、う……休んで、構わないんですよ……」 朝倉さん。 あなたが穏やかに眠れない限り、長門さんも恐らく、永遠に、眠れないままだ。 226 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 16:36:49.41 ID:lWlrP0U+0 朝倉涼子は、僕の呟きに、面を上げて此方を見た。 その手は真っ赤に染まっていたけれど、僕を不思議そうに見据える彼女の表情は、無垢そのものだ。 「――わたしが休んだら、長門さんは誰が護るの?」 「……彼女の、仲間たちが、全力を……賭しますよ」 どんな苦難にあっても、諦めることを知らないSOS団員たちが、己が命を張ってでも長門有希を護るだろう。 それに、涼宮さんが力を取り戻しさえすれば、彼女の身は安泰だ。 だが、それは朝倉さんのお気には召さない回答だったようだ。朝倉涼子は首を振った。 「そんな曖昧な答えじゃダメよ。それに、長門さんはああ見えてとても寂しがり屋なの。『彼女の仲間達』は、今まで本当に長門さんを見ていたの? 長門さんがどんな風に総てを見つめてきたのか、理解してた人はいる?」 「……それは」 答える前に咳き込んで、血を吐いた。 意識が混濁する。 途切れさせるわけにはいかない。油断すれば眠りに落ちてしまいそうなえも言われぬ疲労感から、逃れようと足掻く。 228 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 16:49:01.05 ID:lWlrP0U+0 「……確かに、今までは……総てを、知りはしなかったかもしれません。 ですが……少なくとも、僕は、知っています。今、知ることが出来た……」 抱いた腕に力が篭る。正真正銘の、嘘偽りない想いを、「あなた」に伝えられるように。 知った以上は――変えていける筈だ。 まだ時間は無限にあり、僕らは自由に、長門さんと対話できる。長い時を積み重ねて、心を理解しあうための機会を、幾らだって設けることができる。 そのための言葉だろう。 そのための、仲間ではないのか。 230 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 17:06:13.21 ID:lWlrP0U+0 「誓います。……長門さんは、僕らの、仲間ですから」 切れ切れに息を吐く。 声は枯れようとしていた。目も霞んで、すぐ傍にある筈の彼女の表情さえよく見えない。 それでも、伝えた。僕らの――恐らくSOS団の総意であろう言葉だけは。 「―――」 ふっと、朝倉さんの呆れたような溜息と共に、彼女の身体が腕の中から失せた。 何処かに安堵を含んだ声色で、彼女が笑うのが分かった。 「………そう。あなた、本気みたいね」 231 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 17:17:34.75 ID:lWlrP0U+0 いいわ、信用してあげる。 ――視界が効かない。朝倉さんの声だけが耳に届いていたけれど、それも濃淡を徐々に失っていく。 「――朝倉さん」 ふふ、正直言うとね。ちょっと疲れてたの。休めるなら、……きっとその方が、長門さんのためだわ。 わたし、あなたが此処を訪れるまで、この世界で何度も長門さんを刺し殺さなきゃならなかったのよ。 ……信じられる? 「……長門さん、は……後悔、していたんでしょう。あなた、を……消さなければならなかった、その状況に陥るまで、あなたの変化に『気付けなかった』ことを」 ……そんな後悔、いらなかったわ。 やらない後悔よりやる後悔。わたしはわたしがやりたかったことをしただけなのに。 長門さんは贖罪だと思ってるみたいだけど。 そんなことして、わたしが喜ぶなんて、長門さんは本気で思ったのかしら。 234 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 17:31:19.28 ID:lWlrP0U+0 「相手が望まないと分かっていても、……そうしなければ自分が保てないことも、ありますよ」 ……そういうもの? わたしには、よくわからないわ。 「……いえ……」 否定を、喉元に留める。 あなたも、きっと分かっていた。あなたは自覚していなかっただけだ。だが、それを今言っても、詮無いことなのだろう。 感覚が切り離されたようなのに、身体の震えが止まらない。血を流し過ぎたのか。……もう、終わりが近いのだと、予感した。 ――ま、いいわ。あなたもそろそろ辛そうだし、リミットも近いし。わたしは暫く眠るから。 会えたらいつかまた会いましょう。 長門さんは扉の向こうにいるわ。……あと、―――、届けてあげて。 じゃあね。 235 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 17:45:57.36 ID:lWlrP0U+0 声はふつりと失せた。 まるで初めから、何もなかったかのような静寂。 負傷にも耐え忍んでいた両脚が力を失い、しゃがみこむような体勢になる。血で赤く染まった雪の上に、僕は崩れ落ちた。 傷が都合よく治療されたりはしないようだ。自分で撒いた種とはいえ……。 「は………」 雪を引っ掻く。感じない。何も。 本格的に危ないかもしれない。 瞼が重く、そこから一歩も動ける気がしなかった。眠りへの甘美な欲求が押し寄せてくる。一度抗うのを止めてしまったら、二度と目が醒めないだろうと分かっていても。 236 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 17:55:20.97 ID:lWlrP0U+0 「……長門さん……」 朝倉さんに何度も殺されることを、罪の清算にしようとした長門さん。そうじゃない。……そうじゃないんだ。 長門さんに会わなければ。会って――伝えなければならないのに。 死、の一文字が、ちかちかと脳裏に明滅する。心とは無関係に震える身が厭わしい。 雪に爪を立てて、這ってでも行かなければ。おもむろに伸ばした手に、ぴり、と、血の跡が走った。 「……あ」 雪の中に埋もれた、粉々に砕けた硝子片。手の感触で分かった。雪に埋もれていて、視力では判別出来なかったけれど。 そういえば、音を聞いたのだ。 「何か」を踏み潰して、割ってしまった音。 239 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 18:09:44.66 ID:lWlrP0U+0 何処に残っていた力だったのか。何が僕をそうさせたのか。 僕は無心で、硝子片を掻き集め始めた。 雪に埋もれたそれを、手探りで集める。 指先が切れて傷だらけになり、血塗れになったが、構わなかった。 ただ、それが必要なのだという確信が、僕の胸の内にはあった。 256 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 20:13:19.95 ID:MoOVWdho0 ……… …… 誰かが呼んでいる。 ――必然のために、物事が動くのか。 ――意思をもって動いた先に、必然があるのだろうか。 吹雪は勢いを増す。 雪の中に、ひっそりと浮かぶ一枚の扉。 こんな冬の夜にさえ、「あなた」は、わたしの部屋をノックする。 259 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 20:25:11.62 ID:MoOVWdho0 …… ……… ――扉の先には、文芸部室があった。 そこだけ切り取られた別世界のように。箱型の部屋は、扉を覗いて、一切の出入り手段がないようだ。 そこにはテーブルがあり、椅子があり、本棚があったが、他の団員達が持ち込んだもの――例えば朝比奈さんの衣装や、涼宮さんが隣人から入手したというPCや、僕の持ち寄ったボードゲームは収納されていない。 余り使われた様子のない、人気のない、さびれた部屋だった。 明かりも点いていない。「外」の猛吹雪の様子は窓越しに確認できたが、防音設備が施されたかのごとく、全くの無音だった。 音の無い世界。 彼女は、そんな部屋でぽつんと、本を読んでいた。 窓辺の定位置に腰掛け、蛍雪の功といわれる通りに、雪の白い輝きを明かりにするように。 263 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 20:45:04.78 ID:MoOVWdho0 「こんばんは、………長門さん」 扉を後ろ手にて閉ざし、そのまま、扉に背を凭れてずるりと腰を落とす。べったりと血の痕跡が、ドアノブに付着した。 溢れた赤が、床を汚す。 壁を伝い、脚を引き摺って進もうと試みたが、意識を半ば侵蝕している強烈な眠気がそれを阻んだ。 彼女の前を到達地点にすると決めていたのに、途中で動けなくなる。 ――もう少し、なんだ。もう少し……。 僕は右腕を上げた。血だらけの掌の中に、握り締めたものを掲げる。 荒い息をついている僕の元に、立ち上がった彼女がやって来る。 265 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 20:55:24.92 ID:MoOVWdho0 息をつくのも苦しい。壊れたのは肺か、喉か、それとも何処かの内臓か。 引き攣るような痛みが、僅かに身を反らしただけで体全体を駆け巡る。 「あなたの、……忘れ物です」 それだけ、何とか伝えて、笑った。 僕の傍で屈み込んだ長門さんに、僕は握り締めた掌の中のものを差し出す。 砕けた硝子の粒と、ひしゃげたフレームと、蝶番と。 彼女の物だったものたち。 ――失われていたものたち。 268 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 21:13:59.07 ID:MoOVWdho0 長門さんは眼を見開き、受け取ったそれらを、じっと見据えていた。 「……何処に?」 ……朝倉さんが、恐らくは。 「そう」 長門さんはそれらの硝子片を、ポケットに仕舞い込んだ。 それから、不自然な格好で身を横たえていた僕を仰向けに直し、隣に座り込む。 僕の目の前に、僕を見下ろす長門さんの静かな瞳があった。 「捜していた」 ……これを、ですか? 「この部分だけが見つからなかった。思い出そうとしても、思い出せなかった」 274 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 21:44:05.75 ID:MoOVWdho0 ふっと息が軽くなる。 胸が暖かさに包まれた。――手で確かめれば、腹部にナイフを差し込まれた傷が消えている。 謝意を伝えようか迷ったが、長門さんの言葉を遮りたくはなかった。僕は黙って先を聞く。 「……わたしが、一体何であるのか。わたしは一体何者であれるのか。わたしは、ずっと考えていた」 「………」 「わたしは対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェース。だが――何時の間にか、それ以上を願うようになった。 『人間』の概念を、端末が求めることはあってはならないこと。それでもエラーは蓄積した。わたしは一度端末以上の自我を望み、一度は諦めた」 276 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 21:59:55.96 ID:MoOVWdho0 昨年の十二月の改変世界のことだ。僕は伝聞でしか知らないが、それでも、長門さんが何に基づいて新世界を再構成したのか、話だけでも検討はついた。 長門有希が望んだのは、”普通の人間の生”。人間に焦がれた人魚姫が、声と引き換えに人としての生を手に入れたように。 その奇跡が自分にも舞い降りることを、長門さんは夢見たのだろう。 「……わたしは、わたしの行為によって傷つく人のことを省みなかった。――漸く気付いた。後悔と苦慮の正体に。 わたしはわたしが傷つけた人々に詫びたいと感じていた。可能なら、やり直したいと望んでいた。 だが、わたしが一番謝罪したかった「誰か」の記憶が、わたしにはなかった。 忘却を宿命付けられた有機生命体と、我々は異なる。わたしに忘失の機能は備わっていない。 その記憶は、わたし自身、もしくはわたし以外の何者かに、故意に消されたものでしか有り得ない」 279 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 22:14:32.14 ID:MoOVWdho0 そのことに思い至った長門有希は、思念体に反発し、――エラーを増発し、暴走した。 でも。あの硝子片を受け取って、長門さんは思い出した。 それが良かったのか悪かったのかの論議は別にして。 「……立てる?」 「はい。……大丈夫です」 血に濡れた身には変わりないけれど、痛みはもうない。ゆっくりと立ち上がる。 振り返ったとき、窓の外の吹雪は止んでいた。 280 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 22:26:19.14 ID:MoOVWdho0 「――思い出したのなら、何度も伝える必要はないかもしれませんが」 朝倉涼子の微笑みを思う。二人の間に築かれた、誰も立ち入れない不可侵の領域。 三年間の聖域。思い出。長門さんが感情を併発する基礎を作った、穏やかな暮らし。 朝倉さんがどの様に長門さんに接していたのかを、僕は何一つ知らないけれど。 「………朝倉さんは、今でも、あなたを想っていましたよ」 無意識の長門さんの「贖罪」に、笑いながら、きっと、泣いていたのだろう少女。 不器用な端末達。表向きは笑みを貼り付けながら、その感情を声にも表情にも出力できない。 喜緑江美里も、長門有希も同じだ。 ――宇宙人に感情がない? 彼女たちの生き様を見て、そんな言葉を繰り出せる心無い人間がいるなら、溝の底に頭から突っ込んで溺れてしまえばいい。 彼女たちは確かに愛して、泣いて、生きている。……そこに人間と、どんな差異があるというのだろう。 282 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 22:40:36.62 ID:MoOVWdho0 長門さんは窓辺に立ち、外を見遣って呟いた。 雲が払われた宙に覗く、白い一番星を見上げて。 「………知っている」 表情は隠されたが、僕にはその瞳の揺らぎが見えるような気がした。 ―――彼女がわたしを愛してくれている。 ―――そんなこと、わたしは、とうの昔に知っている。 283 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 22:41:43.97 ID:MoOVWdho0 『世界』を崩壊させる一言。 僕は文芸部室の中から、世界が一斉に輝きだす、信じられないような光景の只中にいて、 ふと、長門さんが先程読んでいた本を見遣った。 それは『SOS団!』の大きなロゴマークがついた、分厚い一冊のアルバムだった。 290 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 23:08:22.45 ID:MoOVWdho0 ………… ……… …… 正直な話、万が一を覚悟するところだった。 古泉なら、何とかしてくれる。俺と朝比奈さんは、古泉という希望の綱が崖っぷちから長門を引き上げてくれることを信じて、六日間を待った。 一時間、二時間と経過して、夜の十一時を回ったとき――リミットまでラストの三十分を切ったとき――俺はその瞬間でさえ古泉を信じていた。そのことに虚偽はないが、生きた心地がまるでしなかったのも確かだ。 大人しく待つだけの身が、こんなに心臓に悪いもんだとは思わなかった。 残り十五分という生きるか死ぬかに係った瀬戸際に、気絶した状態の古泉の姿が病室に現れたとき、……ああいう時は一体なんて言えばいいんだろね? 便宜上仏教徒ということになっている俺も、オーマイゴッドを所構わず口走って、廊下を歓喜の奇声を発しながら駆け回りかけたくらいだ。古泉を心配していた機関の皆さんの喜色ぶりは俺の比ではなかった。 294 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 23:16:39.44 ID:MoOVWdho0 「エラーは完全に除去されています。『閉鎖空間』も展開は見られない。涼宮さんの力は無事に彼女に回帰したようですね」 喜緑さんが、まだ目覚めぬ長門の体調をチェックし、安心していいですよと太鼓判を押してくれた。 病室に帰ってきてからというもの眠りこけている古泉も、疲労が嵩んでいる以外、特に不調なところはないらしい。 眼が覚めたら精密検査にかけられるだろうが、その後は英雄扱いでサービスタイムだな。暫くは労わってやろう。 冬休みであることを利用して、ハルヒに事を報せずに総てが上手く収まったことも俺はほっとしていた。 言い訳が増えるのは問題だが、長門と古泉が同時に倒れましただなんてあいつに言おうものなら、般若の形相で病院に突撃をかましてくるに決まっているからだ。 心配事は少ない方がいい。……まだ、何も知らされてないあいつには。 「安心には、まだ早いかもしれませんよ」 喜緑さんが笑顔で怖いことを言う。……えーと、冗談ですよね? 296 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 23:19:45.64 ID:MoOVWdho0 「冗談かどうか……。いいえ。これは、あなたがたの『未来』でしたね。忘れてください」 意味深なことを告げて、最後に喜緑さんは俺に耳打ちした。 「――古泉さんの右手のもの。ちゃんと、見てあげてくださいね」 299 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 23:24:17.40 ID:MoOVWdho0 あんな風にさも意味ありげに囁かれたら、チェックくらいはしなきゃいけないような気分になる。 なんで古泉の手を取って確認なんて真似をしなきゃならねえんだと思ったが、朝比奈さんにお願いするのは論外なので、必然的に俺がやるしかない。 ベッドで平和に寝息を立てる古泉の鼻を摘むのは後回しにし、俺は布団を捲り上げ、古泉の右腕を取った。 ――ん? 何か握っている。……誰も気付かなかったんだろうか。 指を開かせて取り出したそれは、何の変哲も無い、ごくありふれたフレームの眼鏡だった。 305 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 23:35:41.31 ID:MoOVWdho0 「それ、長門さんが前につけてたのと似てますね」 意見を求めようにも、俺は機関員の方々に軽々しく話しかけられるほど彼等と親しいわけじゃない。ので、相手は自動的に朝比奈さんになる。 彼女の感想を聞いて、確かにと思う。二年は前の話だからあんまりはっきりとは覚えてないが、これは長門の掛けていた眼鏡に似ているかもしれない。……というより、もしかしてそのものなのか? 長門の閉鎖空間から帰ってきた古泉が、握っていた眼鏡。 その巡り会わせの意味を俺が考えていると、 「ふにゃぁ……」 朝比奈さんが突然、猫のような声を発し、俺の胸に枝垂れかかってきた。慌てて抱きとめると、俺の鼻腔を甘いバニラの香りが通り過ぎる。 ショッキング過ぎる体験だ。このまま天国に行けるかもしれん。ふくよかな感触を胸に受け止めていたら、拍子に眼鏡を落とし掛けた。あぶねえ。 306 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 23:41:55.76 ID:MoOVWdho0 「まあ、冗談は置いておいて。……また遡行ですか、朝比奈さん」 「――お話が早いですね。その通りです」 そりゃあ分かりますよ。あなたが朝比奈さんを眠らせるのは、大概、俺を連れて過去にトリップするときでしょう。 でも、あろうことか病室の窓から――正確にはベランダからなのだろうが、長い脚で桟を跨いで入ってくるのは如何なものかと思います、朝比奈さん(大)。 すらりと伸びた美脚がスカートから食み出るだけで、大抵の健全な男子高校生は目のやり場に困るもんです。 「ごめんなさい。ちょっと配慮が足らなかったかな。今度からはパンツスーツにしますね」 いえ、俺が言いたいのはそういうことではなくて。……やっぱ止めておこう。 312 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/01(木) 23:53:37.67 ID:MoOVWdho0 「今回はまた、えらく急なんですね」 「そうでもありません。これも既定されたことだから。……でも、そうですね。今日ではない可能性も有り得ました。今日になったのは、成功したおかげです」 「もしかしなくても――長門の救出ですか?」 朝比奈さんは特上の笑顔を浮かべていたが、俺の質問には答える気がないらしい。「この子が目覚める前に。いきましょう」と俺の手を取ろうとする。 俺は朝比奈さんを近場の空きベッドに丁寧に横たえ、ついでに古泉の右手から入手した謎の眼鏡も置いていこうとしたのだが、 「あ、それは必要なものです…!ちゃんと持ってきてね」 と慌てて念を押された。朝比奈さんのうっかり成分は健在なようだ。 316 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/02(金) 00:09:06.37 ID:rpPiyNGR0 「で。――今回はいつに行くんですか?」 どうせ向かう先ならと訊ねてみたが、朝比奈さんは応じない。まさかこれも「禁則事項」にかかるってことはないよな。 「……行ってみれば、分かります」 唇は笑みを作っていたが、その眼差しは酷く真摯だった。 俺は追求は諦めて、朝比奈さんの指示に従う。まあ、後で詳細を聞くとしよう。教えられる範囲のことなら聞かせてくれるだろう。 ――trip。行き先も知らぬ、過去へ。 330 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/02(金) 00:40:28.86 ID:rpPiyNGR0 ……… …… 「うーん、ちょっと薄味ね」 小皿に取った出汁を啜って、不満の声を上げる彼女は、エプロン姿を振り返らせわたしに微笑んだ。 「料理って難しいわね。繊細な味が再現できないんだもの。あそこのお店で食べたのは、もっとまろやかで濃くがあったんだけど――」 「……わたしは、何でも構わない」 摂取すれば、それだけで終わるもの。その過程に色を添えることに執着する意味がわからない。 「味気ないわね。折角なら美味しいものを食べさせてあげたいじゃない?」 「………」 彼女の笑みはいつも一定。それは「そう作られている」故に、その一基準の笑顔以外を彼女は表示できない。 わたしも、そう。 彼女に複数のフェイスパーツがあれば、恐らく人間のように、くるくると表情を変えることが出来るのだろう。 331 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/02(金) 00:51:32.41 ID:rpPiyNGR0 れは、わたしにはない機能だ。 「あ……お茶煎れようと思ったら、葉っぱが切れちゃってる。ちょっと買ってくるわね。夕飯はもうじき出来上がるから、待っててくれる?」 首肯すると、彼女はひらりと手を振り、部屋を出て行く。 生誕から数月、未だ勝手の分からないことは多い。大概の煩雑なことは彼女が独りでに処理してしまう。最低限のことは手本を見せられるままに覚えたが、まだ自分から進んでそれを行ったことがない。 ――必要に迫られるということがなかった。だから、今も安穏としている。 わたしは、このままでいいのだろうか。 336 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/02(金) 01:07:35.03 ID:rpPiyNGR0 53分後、彼女が帰宅。 「遅くなってごめんなさい。さ、ごはんにしましょう」 彼女が食事を温めなおす間に、わたしはテーブルに食器を並べる。よく利用する醤油、ドレッシングも一緒に配置。 学んだこと。学ばされたこと。当たり前のこと。 「今日は筍御飯にしてみたわ。初めて作ったから、味の保障はできないけど」 茶碗によそった湯気を立てる御飯に、人参と筍が散りばめられている。……食欲をそそる。 「いただきます」 並べ終えた御飯を前に手を合わせて、箸を掴む。 一口目を飲み込もうとした矢先に、箸を置いた彼女が、不意に立ち上がった。 「……これね。掛けてみない?」 340 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/02(金) 01:14:00.51 ID:rpPiyNGR0 彼女が懐から取り出したのは、眼鏡だった。人間が視力を矯正するための装具。 視力を自力で調整することの可能な有機端末には、不必要な代物。 「………」 これをわたしが装着することを提示してきた、その意図が読み取れない。 見上げるわたしの視線を受けて、彼女は曖昧に微笑む。 「ただの眼鏡じゃないわ。……レンズは入ってないの。これ、記憶を蓄えるんですって。外部のメモリみたいなものよ」 「……何処で」 「貰い物。おせっかいな未来の誰かさんからのね」 344 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/02(金) 01:25:35.82 ID:rpPiyNGR0 我々にはそもそも、忘却の概念はない。もしデータが破損したなら、統合思念体に申請すればバックアップが提供される。 記憶を貯蔵する機能があるとはいえ、このサイズでは収容できるデータ量も高が知れている。――やはり、必要とは思えない。 だが、彼女は笑顔で、わたしに眼鏡を掛けさせる。 「うん。似合うわ、長門さん。暫くそれで過ごしてみない?」 「………なぜ」 「任務中、いざというときに何があるか分からないもの。保険は多いに越したことはないわ」 何か理由があるのかもしれない。だが、わたしにそのことを訊ねるための「声」はない。 彼女の笑顔は、眼鏡越しにも変わらなかった。だからわたしは、彼女の提案を受け入れることにした。 「――そう」 呟いた先に、不意に、抱き締められる。強い力だった。まるで何かに縋るかのように。 347 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/02(金) 01:30:12.78 ID:rpPiyNGR0 「………長門さん、もしもの時には、忘れていいわ。全部、忘れていい。 でも、これだけは覚えていて欲しいの。 わたしは、いつだって、あなたのことを」 355 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/02(金) 01:46:19.10 ID:rpPiyNGR0 …… … ――与えられた「禁じられたワード」は。 彼女が口にしたその日の記憶もろともに、長門有希から奪われた。 複雑な表情でわたしを見下ろす、古泉一樹。……惜しいと思ったのは、そこに微笑がなかったから。 「彼女」の笑みは、何処か古泉一樹のものに似ていたのだと、今になってわたしは気付く。 「………ご気分は如何ですか」 「平気」 もう少し、夢の余韻に彼女を想っていたかったけれど。 ――こちらが現実(いま)であることから、逃げることはもう出来ない。 358 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/02(金) 01:54:02.43 ID:rpPiyNGR0 「よろしければ、お使いください」 穏やかな気遣いに満ちた声でハンカチを差し出されて、初めて知った。 ――頬が濡れていた。初めて見たあの夢に、わたしの眼は涙を知ったのだ。 過ぎた幸福への憧憬。彼女の居ない明日の悲哀。 わからない。それがどちらの涙なのか。 「今は、休養を取りましょう。考えるのは後でもいい。時間は、まだまだあります」 古泉一樹が、わたしの髪に触れて、柔らかく微笑んだ。 「――おかえりなさい、長門さん」 361 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/02(金) 02:02:24.79 ID:rpPiyNGR0 ただいま、と。答えることが赦されるだろうか。……今の、わたしに。 ふと、周囲の様子に気付いて、わたしは上体を起こす。 古泉一樹が苦笑する。 「僕が起きたのも、つい先程でして。……その時から、ご覧の通りです」 床に朝比奈みくる、「彼」が眠っていた。――そしてその隣に、あろうことか、涼宮ハルヒ。 「こちらも工作を二重三重にしていたんですが、それでも勘付かれていたようで。なにせ連絡が取れないまま七日間でしたからね……。「彼」の親御さんに話を聞きに、涼宮さんが直接自宅まで押し掛けたそうで、親御さん経由で病院も知れてしまいました。 酷い暴れようだったとかで、……機関員はフォローに必死だったようです。僕は夢の中でしたので、楽をさせて頂きましたが」 「次からのフォローはあなたの仕事」 「……はは、先が思いやられます」 362 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/10/02(金) 02:07:39.48 ID:rpPiyNGR0 疲れた笑みで振り向いた古泉一樹が、わたしを見、動きを止める。それから、鮮やかな笑顔へ。 「……何」 「いいえ。何でもありません。……ただ、そうですね」 古泉一樹は、人差し指を唇に添えて、意味ありげに笑って見せた。 「長門さん。後で確かめてみませんか。もしかしたら――素敵なことがわかるかもしれませんよ?」 おわり